「instagram」に
関する記事一覧
-
/
-
コラム#4-12 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 気仙沼はこの13年で、 まちも、人も、ものすごく変化してきた。 東日本大震災をきっかけに 移住したり、関わりを持ったりした人がたくさんいて、 そのご縁は今でもずっと続いている。 だから、絶対まちは良くなる。 そこから生まれるものだって、たくさんある。 大丈夫だ。 無責任な言葉に聞こえるかもしれないけれど、 気仙沼からだから届く言葉だと思う。 大丈夫。 明るい方に、歩いていこう。 photo by kohei shikama ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-11 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 あの日から13年目を迎えて、かずえさんはどんなことを思っているのだろうか。 「まずは、生きててよかったなって。本当に、生きててもらってありがとうって。こうやって13年目を迎えられて、ありがたかったな、幸せだなって。このまちにいる人たちとか、まちから出て行った人も、どこにいる人も、みんなとにかく生きててよかった。 もう二度と、人の命が失われるような、こんな目には合いたくない、二度とね。けど、この13年間、悪いことばかりではなかったなと。”おかげ”って言うのは違うと思うけど、震災があった”から”、出会えた人とか、起きたことが、ずいぶんあるなって。それがありがたかったなって思います 気仙沼は、もちろんできてないこともあるけれども、変われたところもある。だいぶ変われたという自負があるから、また変わろうっていう心映えがある。『もっと変われるかもしれない』って思えたことは、一番良かったことじゃないでしょうか」 気仙沼から、能登の人たちに伝えられることってなんでしょうか、と改めてかずえさんに聞いた。 「気仙沼も、震災以前は閉塞感でいっぱいだったんです。『変わらざるをえない』っていうことが、必ずいいエネルギーに変わるんだと思うの。全国からたくさんの方が手を繋ぎましょうって言ってくると思うし、その人たちと一緒に何かをすることで、これまでしがらみで動けないと思っていたことが、大きく動くきっかけになる。 生きている人たちは、いろんなことを負い目に思ってると思うけど、明るいものを見てほしい!明るいことをじゃんじゃん見て、そっちに向かったら、きっといいことがあるんですよ。能登の人も、もっとよく変わる。それは必ずそうだと思います」 「必ず」というかずえさんの言葉は、「大丈夫だから!」と背中をたたいてくれてるような感じがした。 (4/4) photo by fumika sato ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-10 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 かずえさんは、市内の女性が集まってまちを元気にする「気仙沼つばき会」の活動も行っている。 つばき会は今年2月、気仙沼の2040年をみんなで考える「みらいワークショップ」を開催した。気仙沼出身の高校生や大学生、地元企業の代表など、年代も肩書きも多様な人たちが集まって、「こんな気仙沼はいやだ」「こんな気仙沼がいい」をあれこれ話し合った。その時かずえさんは、こんなことを思ったという。 「若い人たちが、いろんなことを考えて動き出しているの。沼コス(高校生が企画・開催したコスプレイベント)っていうのもやってたでしょ。びっくりするよね。素晴らしいなって思うの。そういう人たちが育ってるんだっていうことが、頼もしいなって。 私の歳になると、長く生きてしまってるからいろんなことを考えてしまうんだけど、それは辞めたほうがいいんじゃないかって思う。まちも、国も、今から前例のないフェーズに入っていくから、『自分たちが持ってる知見なんてそんなに役に立たない』ってことを、まずは自分が肝に銘じようと思ってる。若い人たちにのびのびやってもらえるように、全力で応援できるような体制を取りたいなって思っています。 人口減少だとか、問題は山ほどあるけど、やろうとしていることを、まず全力でやったらいいんじゃないかって。やってみて失敗するのを繰り返すうちに、いろんなことができていくんじゃないかなって思うので。そのほうが良くなるんじゃないかな。とにかく、やってみないとわかんないでば!」 (3/4) photo by fumika sato ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-9 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 同じ市内でも、被災状況は人それぞれ。 だからこそ、お互いに気を遣う空気感があった。 かずえさんに、当時のことを聞いた。 「(津波で)家が流されなかったところもあるでしょう。だから、(家を流された)私に合わせようとするの。お通夜さ行った時みたいな感じ。海の近くに会社や工場があったから、全部流されているんだろうなってことは、みんなわかるじゃないですか。私に寄り添って、みんなそういうトーンで話してくれる。 それがね、本当に大変になってきたの。合わせてもらっているトーンに合わせるのが。それに合わせると、メンタルがやられそうな感じがしたので。 だから、もっと自分のフラットなトーンでいいやって思い始めて。しょうがない、大丈夫、大丈夫!って。『何か私にあげてもいいものあったら、もらうからちょうだい!』って自分から言うくらいに。そういう感じに変わったっけ、楽になってきた。 あんまりさ、家がなくなった人たちに悪いって思わないでいいよって思ってる。それで、自分をもっと楽にさせたほうがいいなって思うようになった」 そう思う一方で、それは従業員や家族が助かったからそう言えるのだと思う、とかずえさんは言う。 「何もいらないから、人命だけ助かれば、あとはなんとかなるからって、本当にそう思ってる。今も、こうして生きているし、当たり前の暮らしができるようになったし。だから、生きていたら、なんとかなるんですよ」 (2/4) photo by kohei shikama ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-8 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 3人目に会いに行ったのは、気仙沼自慢の豊かな食を全国の食卓に届けている斉吉商店 @saikich_syouten のかずえさん。明るくて、活発で、話すと元気をもらえる人だ。 2011年の3月11日。食品加工の工場、店舗、本社が津波の被害にあった。事前に有事の対応について共有できていたため、従業員が全員無事避難できたのが、不幸中の何よりの幸いだった。 2日後の朝、かずえさんは本社や工場がどうなったかが気がかりだった。「危険だから駄目だ」と言われながらも、いてもたってもいられず、がれきの中を何時間もかけて歩いて見に行った。建物のあった場所は変わり果てていた。火事で真っ黒に焦げた船とまちを見て体が冷たくなる思いがしたという。その時、思いもよらぬ光景がかずえさんの目に飛び込んできた。 「そこにね、真っ白い船が入ってきたの。無傷の船。もう、唖然とした!綺麗で。空も青くて。そうか、沖に出ていた船は無事だったんだ!って。無傷の、たった一つのものみたいに見えたんですよね」 全部ダメだと思った時に見たその光景は、明るい気持ちを思い出させた。 「起こってしまったことって、どうしようもないじゃないですか。だから、少しでも明るい声を出したり、笑ったりできるものを探していたように思います。だって不安でたまらないわけだから。みんな『少しでも明るい話をしよう』って意識があったと思います」 無理をしてでも、少しでも明るくいること。それは自分の気持ちを保つために必要なことだったのかもしれない、と話を聞いていて思う。 (1/4) photo by fumika sato ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-7 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 大学卒業直前の2月。ゆきちゃんは、能登半島地震で被災した子どもたちを支援するボランティアに行くことにした。 向かったのは、石川県羽咋市にある国立能登青少年交流の家。災害の現場復旧ではなく、子どもたちが被災地から離れて過ごすリフレッシュキャンプのサポートだ。 「東日本大震災の時に学生ボランティアが来ていて、それを見ていたので、大学生になったら自分もやりたいと思っていました。そんな時に、拓馬さんと能登の復興支援の話になって、ぜひ行きたい!って」 彼女は毎日子どもたちとのかかわりに奮闘した。その様子を毎日気仙沼の人たちにレポートとして送った。それを読ませてもらった時、能登の子どもたちに誠実に向き合うからこそ葛藤し、喜びも苦しさも、いろんな感情を抱えながら活動している様子が伝わってきた。 これからやりたいことを聞いてみると 「何度でも能登の現地に行きたい」と言う。 何度でも、か。その言葉を反芻していると、ゆきちゃんがこう答えた。 「自分がそうしてもらったからです。あの時、何度でも来てくれたから」 その姿を見ていたからこそできることがあるのだなと、彼女の話を聞いていて思う。「気仙沼から能登の人たちに伝えられることってなんだろうね」と聞いてみると、彼女は悩んでしばらく唸るように考え込んだ。 「うーん……。私が言えること、ないんですよね。何も言わないと思います。『一緒に頑張りましょう』もなんか違うし。うーん、難しいですね。何も言わないけど、ただその人たちと一緒に生活を送ると思います。ボランティアとしては、ただ一緒にいたいですね」 彼女はこの春大学を卒業し、まちづくりの研究を深めるべく大学院へ進んだ。これからも能登の復興支援に行く予定を立てている。 してもらってうれしかったこと、ありがたかったこと、かっこいいと思った大人の姿。次の世代へ受け継がれていくものは、今の私たちの生き方そのものにあるのだと、背筋を伸ばした。 (3/3) photo by asami iizuka ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-6 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 高校卒業後の進路は、大学でまちづくりを学ぶことに決めた。 ずっと東京に出たい気持ちもあったし、気仙沼で出会った大人で一番影響を受けた、まるオフィスのたくまさんが学んだ大学だったからだ。 たくまさんのどういうところに影響を受けているのか聞くと、「常に新しいところですね。変化しようとしているところ。一緒にいて面白いなって思います」とゆきちゃんは言う。 大学生になってからもたくまさんとのつながりは絶えず、探究学習の学生コーディネーターとして気仙沼に関わり続けた。 「気仙沼には大学がないから、ちょっと歳の離れたお兄さんお姉さんって、憧れがあったんです。自分が子どもの頃も、大学生が企画したワークキャンプとかに参加して会う機会があって、それで自分もやりたいって思ったんです。あの時はしてもらったから、自分がサポートする側に回ろうって」 元々地元を早く出たいと思って東京へ行った彼女は、今の気仙沼をどう思っているのだろう。 「大学にきて思うのは、帰ってこれる場所があるって良いなって。『ただいま、おかえり』って言ってくれる場所。周りから、ふるさとがあることを「良いな」って言われることが多いんですよ。あとは、面白い人が多いですね。自分の好きなこととかやりたいことを持っていて、自分の人生を生きている人」 東京と気仙沼。大学生活を過ごしながら気仙沼とも関わり続けて活動するのは、簡単ではないだろうなと想像する。それでもずっと気仙沼に関わり続けるのは、なぜだろう。 「声をかけてくれる人たちがいて、その人たちが面白いからです。やる時はちゃんとやるし、ふざける時は全力でふざけるし。そういう大人って良いなって思うし、一緒にいたい、関わっていたいって思います」 かつては、ここには何もないと思っていたゆきちゃん。だけど今、「面白い」と思う人たちは気仙沼にいて、いつも刺激をもらっているのだ。 (2/3) photo by asami iizuka ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-5 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 次に会いに行ったのは、気仙沼出身でこの春大学を卒業したゆきちゃん。 学業に励みながら、気仙沼に定期的に通って地元の高校生たちの探究学習をサポートするなど、高校を卒業してからも積極的に気仙沼と関わり続けている人だ。 「もともとは地元が嫌いだったんですよ。テレビ見てると東京のイルミネーションとか原宿の竹下通りとかが映って、それに憧れてました。ふと見たら、ここには何もないなって思って」 東日本大震災の時は小学3年生。当時、復興ボランティアとしてたくさんの人が気仙沼に関わり、「このまま気仙沼の復興を手伝いたい」と移住する人もいた。夕妃ちゃんは、移住者たちが企画するまち歩きのイベントに参加するようになった。 「移住者の人たちは、歩きながら分からないことが出てきたら、地元の人たちに『これはなんですか?』と聞いて面白がっていたんです。自分は都会に憧れていたし地元を早く出たいと思っていたから、『変なの』って思ってました。それから、『漁師さんってかっこいいよね〜!』と話す方もいて、衝撃的でした。父と祖父が漁師だったので、当たり前すぎて感覚が分からなくて。自分の方が長く住んでいるのに、移住してきた人たちの方がこのまちの良さを知っているのは、悔しさもありました」 いつのまにか、嫌いだった地元を「そういう見方もあるのか」と捉え方が変わっていった。それまでは学校と家を行き来するだけだったのに、週末は大人たちと会うようになり、それがとても楽しかった。 「『こういうイベントあるよ。来ない?』って声をかけてくれるんです。『この大人が言うなら絶対楽しいだろう!」って思って参加してました。楽しいことをやってくれる、ワクワクさせてくれる大人だなと思っていました」 高校生になると、これまた楽しそうな大人たちに誘われて探究型のプロジェクトに参加。探究することの面白さを知り、世界をどんどん広げて行った。 (1/3) photo by asami iizuka ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-3 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 「僕が力になりたいと思えば思うほど、気仙沼の人たちが考えていること、感覚に近づきたいって思って一生懸命頑張るわけですけど… 2016年の、3月11日のちょっと前だったと思うんですが、気仙沼のある方にお会いした時に、いつも明るくて元気な方なのに、すごくテンションが低かったんです。『3月11日に近づいてくると、気持ちが沈んでくるの』って。 ちょうど5年の節目。みんな頭の中で「5年後はこうありたい」ってビジョンを描いて、復興を目指してやってきた。そのビジョンと現実との、初めての答え合わせの日だったんですよね。 その時に、全く自分たちのビジョンに追いついていない現実を目の当たりにする。そこから次の5年後を描かなきゃいけない。そうなった時の虚無感というか、無力感みたいなものって、僕の心じゃちょっと追いつかないくらいのものだろうなって。本当に、力になれるのかなあ、と無力感を感じました」 それでも気仙沼に関わり続けてきたのは、なぜだったのか。 (2/3) photo by asami iizuka ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-2 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 浅草の仲見世通りにある、梅干しと定食の店「梅と星」@ume_to_hoshi へ。 鶴亀食堂がここでイベント的に気仙沼産のカツオやわかめ、メカジキを出したり、斉吉商店が海鮮丼を出したりしたこともあり、東京と気仙沼をつなぐ場所にもなっている。 この場所を運営するのは、株式会社バンブーカットの竹内順平さん。 「気仙沼漁師カレンダー」を気仙沼つばき会と一緒に制作してきた、気仙沼と切っても切れないご縁の方だ。 竹内さんが始めて気仙沼を訪れたのは、2012年にほぼ日が開催した「気仙沼さんま寄席」の時。当時は大学を卒業したてで、ほぼ日のアルバイト未満のような状態。お手伝いのような、付き添いのような、そんな形でスタートした。それから「気仙沼のほぼ日」ができて、通う理由ができた。 「何かと手を挙げて、力になれるなら、なんでもやります!って感じでした」 2年ほど働いたほぼ日を卒業してまもない頃、ご縁あって漁師カレンダーの制作に携わることになった。 「ほぼ日にいられたおかげで、微力ながらも力になれる環境にいられたんですけど、卒業したらなんの力にもなれなくて、関わり続ける仕事をつくることもできなくて。そんな中でいただいたお話しだったので、ご縁が切れなかったという喜びは、すごく大きかったですよ」 これまでとは違って、自分でプロジェクトを回していかなきゃいけない中で、どうしたら力になれるのかたくさん考えたという。そして今年、最終章となった10作目が完成した。 「本当に力になれたのか、今も答えはわからないです。でも、なってると思ってもらえたら良いなと思います」 答えはわからない。そう話す竹内さん。どんな思いで気仙沼に関わり続けてきたのだろう。 (1/3) photo by asami iizuka ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#4-1 気仙沼から伝えられることって、何だろう。
気仙沼から伝えられることって、何だろう。 2024年の1月1日、能登半島地震が起こった。 テレビからは、力強い声で情報を伝えるキャスターの声。 L字バーに津波の到達情報が映し出されている。 みんな逃げてほしい、助かってほしいと祈るしかなかった。 テレビ越しに感じる緊迫した状況の中で、ふとよぎったのは 「あの日、気仙沼もこんな風に見られていたのかな」ということ。 13年前のことを、自然と思い出していた。 この13年、いろんなことがあった。 まちは時間をかけて変化してきた。 そして本当にたくさんの人が、気仙沼に関わってくれた。 気仙沼でがんばる人も、 離れたけどずっと思いを寄せる人も、 あの日を機に気仙沼に関わり続ける人も。 一人ひとりに、13年間の軌跡と、思いがある。 東日本大震災を経験した気仙沼だから 伝えられることがあるんじゃないか。 大げさかもしれないけれど、きっとあるはず。 そう思って、3人の方に会いに行くことにした。 photo by asami iizuka ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから
-
コラム#3-6 地球にも人にも優しい暮らしって?
地球にも人にも優しい暮らしって? 今あるものを見つめて大切にすること。 消費するだけでなく、創造的であること。 仲間と一緒にやってみること。 くるくる喫茶や勝手に環境庁の話を聞いていると、「地球にも人にも優しいって、実現できるのかも」と希望が湧く。 私はどこかで「一人とか少人数が動いたところで、現状は変わらないだろう」と勝手に諦めていたけれど、そうじゃないんだと思った。 一人ひとりのエコな選択と行動が増えたら、そこから変わるかもしれない。 そう信じられる今、私はとにかく実践するのみだ。 photo by asami iizuka ほかにも気仙沼の暮らしに関するコンテンツ発信中! Instagram「海と暮らせば」はこちらから