気仙沼での暮らし方 【UIターンインタビュー】ビビビ×2回の直感で移住を決めました。

気仙沼の複数の造船会社が合併して新たに立ち上がった「みらい造船」は、漁師町・気仙沼の“みらい”を支える会社のひとつです。そんな「みらい造船」で働く稲葉美羽さんは、子どもの頃から船が好きでその夢を叶えた、などというタイプではまったくありません。就職の面接時、造船の知識はゼロ。それでも、気仙沼への移住と就職を目指したのは、何度か気仙沼の友達を訪ねるうちに「この町で子どもを育てたい」という直感があったからだそうです。ではなぜ、静岡県御殿場で大学生だった彼女は、そんな想いを抱くようになったのでしょうか?

美味すぎるホタテの衝撃@人生初気仙沼。

私が生まれたのは静岡県の御殿場という町です。大きなアウトレットモールが有名なんですけど、大都会では全然なくて自然に囲まれた、いわゆる田舎でした(笑)。だから、都会の生活が合わなくて気仙沼移住を決めたわけではありません。じゃあ、なぜ移住したのかと考えると、「直感!」としか言えないんです。移住したのが23歳の時なんですけど、その頃もいまも「気仙沼のどこが好き?」と聞かれても、うまく答えられないんです。大好きなのに、うまく言葉にできないこの感じも、直感で移住を決めたこととつながっているのかもしれません。

 

気仙沼と私の一番最初のきっかけみたいなものならあります。それはですね、ホタテ(笑)。私、ホタテが大好物なんですけど、はじめて気仙沼を訪れた時に食べたホタテが、それはもうおいしくて、そのうえ、めちゃくちゃ大きかったのが衝撃的で。大学2年生の時でした。震災があったのは、中学3年生の時だったから、あの出来事から5年後ぐらいですかね。地元・静岡の大学の同級生が気仙沼出身で、彼女の実家などを訪ねたのが最初でした。

 

私が訪れたタイミングでも、地域の方は大変な思いをされていたはずです。でも、私の率直な感想としては、真っ暗で悲しい被災地感は一切なくて。ボランティアではなく、友達を訪ねた気楽さが大きかったのかもしれません。「気仙沼を町歩きする『ロールプレイング気仙沼』っていうイベントがあるからおいでよ」と友達が誘ってくれたんですけど、そのイベントが、それはまぁ素晴らしかったんです。気仙沼の前もうしろも上も下も全部見せるみたいなゲーム感覚で、たとえば市役所の通りの建物の壁にちょこんと古い自転車のマークが付いていることを発見できたり、気仙沼には商売をやっていないふつうの家にも歌舞伎の「中村屋!」みたいな屋号があることを知ったり。とにかく、楽しかったんですよね。しかも、大好物のホタテがおいしいっていう(笑)。

 

その時の私は、まさか4年後の自分が「移住」するだなんて考えてもいませんでした。

 

ないない尽くしの自分と2度目の気仙沼。

ちょっぴり時間軸が前後するのですが、大学生だった頃の私は、国際協力に興味がありました。気仙沼をはじめて訪れる前の大学1年生の夏には、発展途上国の人の助けになりたくてネパールへ行ったりもしたんです。でも、わりと早い段階で<国際協力の意義ってなんだろう?>と目的を見失ってしまいます。理由はふたつありました。

 

ひとつはイメージが全然違ったこと。ネパールの人は貧困に苦しんでいる、どうにかしなきゃぐらいの意気込みで向かったんですけど、現地の人たちはその環境でたくましく生きていたし、笑ってたし、のどかに生活していて、なんというか「平和」だったんですよ。なのに日本のシステムをこの国に導入してもネパールが日本化しちゃうだけなのではと、私は感じてしまったんです。

 

もうひとつは、ネパールでがんばっている日本の人たちの多くは、なにかしらの特技があったということ。「教育」だとか「農業」だとか「スポーツ」だとか。それに比べて自分はなにもないなぁって。特技もない。特技はおろかできることもない。好きなことも、趣味もない。ないない尽くしの自分……。

 

ネパールで国際協力の意義を見失い、自分自身のなにもなさに落ち込んだ私は「よし、もっと勉強しよう!」とインドに留学します。でも、一緒なんですよね、場所を変えたって。インドでも続く<はぁ……>という、ため息がちな日々。いま振り返ると、世界は私には大きすぎたのだと思います。

 

でも、不思議だったのは、インドでため息をついていると、「日本に帰りたい」じゃなくて「気仙沼に帰りたい」と感じている自分がいたことでした。そんなタイミングで例の友達が「今度また『ロールプレイング気仙沼』をやるよ」と教えてくれたんです。「あ、行く行く」と即答した私。だって、あのおいしいホタテも食べれるじゃんという軽いノリでした。

 

それで、帰国して1週間もたたないうちに2度目の気仙沼を訪れたんですけど、「おかえり」と1度目の時に会った人たちに言われるのが、なんだか心地よかったんです。私も「ただいま」という感覚がすごくあって。

 

その頃からですかね。遊びに来るのではなく<どうやったら気仙沼に移住できるんだろう?>と漠然と考えるようになりました。

 

気仙沼で子どもを育てたいという直感。

移住への大きなハードルのひとつは「仕事」だと思います。私の場合も、そこは悩みました。悩んだというか、気仙沼移住うんぬん以前の話で<やばい。春から大学4年生だ><なのに、なんのビジョンも固まってないぞ、私>と焦りまして(笑)。ただ、このまま、就職時期だからという流れのままに就活するのだけは絶対にダメだと感じていました。

 

そんなタイミングで出会ったのが、その後、大学を1年間休学してインターンさせていただく「まるオフィス」です。気仙沼の唐桑地区というところの“まちづくり団体”なんですけど、ネパールで感じた違和感とは、まったく逆の活動をしていることにワクワクさせられたんです。ネパールでの私の自己嫌悪は、ざっくり言うと<よそ者が外国でなにをできるっていうんだ?>という無力感でしたけど「まるオフィス」の人たちだって、県外からの移住者というよそ者だったのに、地域に根付いてこの町を活性化させようとしている。ビビビときました。すごい。勉強したい。そう思いました。

 

気がつくと私は、「なんかすごいと思ったから。なんかみんながキラキラしてて勉強してみたいと思ったから。インターンさせてください!」と初対面にもかかわらずスタッフの方にお願いしていたんです。我ながら、「なんか」ってなんだよと(笑)。でも、懐の大きい「まるオフィス」は、私を2017年度のインターン生として受けれてくださって。

 

インターンでの学びは大きいものでした。さっき、ないない尽くしで「好きなものがない」なんて言いましたけど、そうでもなかったなぁと、いま話していて思い出したのは、昔から子どもが好きだったということ。

 

たとえば、「まるオフィス」主催の子どもたちの漁師体験というプログラムをお手伝いした時のこと。震災後の気仙沼では「海が怖い」という子どももいたんですけど、漁師体験のプログラムのおかげで海に行けるようになったり、魚に触ったこともなかった子がうれしそうに魚をつかんで笑ったりしていたんですね。それでまた、そういう体験を通して「自分たちの町にはなにもないと思ってたけど、すごいものがいろいろあるとわかりました」なんて地元の子どもたちが発表する場面に居合わせることができて。<すげぇ!>と思いました。この子たち、すげぇって。そして、こういういい子を家族という単体だけではなく、地域で育てようとしていることにも感動したんです。

気仙沼市唐桑地域で参加した子どもたちとの畑の収穫イベント
まるオフィスが取り組む中高生向けの地域学習にもスタッフとして参加

その時ですかね。直感的に気仙沼への移住を決めたのは。自分の子どもは絶対にここで育てようと、理屈じゃなく心が決まりました。

 

とはいえ、そこから大学を1年間休学して唐桑でインターン生活をしている間は、勉強なんてもちろんしていないし、就職への焦りはずっと続いていました。

移住以前と以後で私は変わった?

いまの私は、「みらい造船」という気仙沼の造船業会社5社などが合併した会社に勤めています。

 

実は、大学5年時の就職活動で、親の勧めるままに気仙沼市役所を受けて、あっさりと落ちまして(笑)。勉強してないわ、エントリーシートを出すのが2週間前だわで、そりゃあ落ちて当然でした。

 

でも、落ちたのがよかった。本当によかった。まさに市役所を落ちたそのタイミングで「会場は仙台なんだけど、気仙沼の企業の合同就職説明会をやるからおいで」と「移住・定住支援センター MINATO」から情報をもらえたんです。

 

その会場のとあるブースで出会ったのが「みらい造船」でした。社長と一緒に来ていたある男性社員は、「俺、マジでこの仕事に誇りを持ってるんだよね!」と熱く楽しそうに話してくれて。ビビビときました。かっこいい。造船のことなんてまったく知らなかったけど、そう感じました。「まるオフィス」の時と同じような直感で、「すみません。この場で面接してください」と社長にお願いをして、運よく採用していただいて現在に至るという感じです。

 

移住ってどういう経験なんでしょうね?

 

なぜ移住したのかという理由に関しては、やっぱり直感としか言えないんですけど、「移住という経験」ならば、移住以前と以後の私は大きく変わったように感じています。

 

以前の私は<いい子でいなきゃ>と考えていたんです。まわりの友達から「明るいね」とか「いつも元気だね」と言ってもらえて、そのイメージに応えようとして、落ち込んでいる時でさえ無理に笑っていた自分。

 

なのに、「みらい造船」のいまの仕事では、<嫌われてもいい!>ぐらいの勢いで生意気なことを言ってるんですよ。複数の会社が寄り集まって「みらい造船」になったので、守らなければいけない伝統ももちろんあるけど、変わらなきゃいけないところもたくさんある。そこに気づけるのは、私たち若手だと思っているので。気仙沼は漁師さんの町で、漁師さんを支えるのが造船の仕事。だったら、この会社は残さなきゃいけない。だって、気仙沼に必要なんですもん。しかも、私自身の願いも、気仙沼にずっといたいし、子どもを産んでこの場所で育てたい。だから<いい子でいなきゃ>モードなんて、どうでもいい。

 

「みらい造船」って、職人さんもカッコいいんです。70歳をすぎたぎょう鉄(鉄板を曲げること)の職人の親方は「いまの時代は指先ひとつで機械を使って人をダマす。オレオレ詐欺とかもそうなんだろ? でもな、いくら機械化が進んでも俺たちのこの指がなきゃ、曲げはできねぇ」なんて、さらっと言うんですよ。本当にかっこいい。

 

いま、もうひとつ思い出しました。最初に「気仙沼のどこが好き?」と聞かれてうまく答えられないと言いましたけど、気仙沼にはかっこいい大人が多いです。そこが好き。漁師さんも職人さんも、「まるオフィス」の先輩も、ふつうに町で出会った人のなかにも、男も女も関係なく、かっこいい大人が本当に多い。

 

そういう人生の先輩たちとの出会いのおかげで、私は気仙沼に移住を決めたのかもしれません。

 

取材・文:唐澤和也(Punch Line Production)

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