気仙沼での暮らし方 【UIターンインタビュー】仕事も、家族も、地域も楽しみ尽くす
2017年8月26日
地方で、仕事はもちろん、家族、地域との時間も大切にして暮らすーー。多くの人が憧れるような生活スタイルだが、実際に「移住」となると、大きなハードルが存在していることも、事実。都心の生活が充実すればするほど、移住の決断には勇気を伴うことになる。2014年に気仙沼に妻子とともにUターンした廣野一誠さんも、その一人。今では仕事、家族、そして地域でアクティブに活動する廣野さんのUターンストーリーに迫ります。
震災そして復興へ。揺れる故郷への想い
気仙沼生まれ、気仙沼育ちの廣野一誠さんは、東京の大学を卒業後、外資系大手のコンサルティングファームに勤務し、広告・マーケティング関連のベンチャーの立ち上げに関わった。私生活でも、2010年に結婚するなど充実した生活を送っていた。
「家業があるので、いつかは気仙沼に戻ってこようと思っていましたし、妻にもそう話していました。ベンチャー企業に参画したのも将来の経営を見据えてのことでしたが、『まだ早い』と、踏ん切りできずにいたんです。そんなときに東日本大震災が起こりました」
震度6弱の揺れ、そして大津波は廣野さんの実家・気仙沼を襲った。
廣野さんが気仙沼を訪れることができたのは、震災から2ヶ月近くがたったゴールデンウィークのことだった。幸い家族は難を逃れたが、実家も1.5mほど浸水。家業の社屋は流出。大きな被害を目の当たりにした。
故郷の被害を見て、「実家に帰る」という言葉が廣野さんの脳裏によぎった。
しかし、「今戻ってきても迷惑をかけてしまうだけではないかと思ったんです。まずは東京でちゃんと仕事をして、自らのスキルを伸ばし、貢献できるような人材にならなくては、と先送りにしてしまった」と話す。2012年夏には長男・真之(まさゆき)くんが誕生。そんな廣野さん一家の転機となったのは、2013年夏のことだった。
「気仙沼に帰省したとき、がれきの撤去が進み、きれいに更地になっているの故郷の姿を見て『本当に大変だった時期に、俺はなにもしなかった、なにも貢献することができなかったんだな……』と後悔したんです。いつか、いつか…東京での仕事で成果をあげて、自信がついたら、気仙沼に帰ろうと思っていました」
けれどそれを言い訳にしている自分にも気づいた。その夏、妻・香苗さんに「気仙沼に帰ろうと思う」と打ち明けた。そこから、住まいの確保や会社の引き継ぎなどを行い、2014年12月廣野さん一家は気仙沼の地へと引っ越した。
「Uターンへの第一歩として、とにかく住む場所を決めることからはじめました」と廣野さんは話す
地方でしか味わえない仕事の喜び
家業であり、廣野さん自身が現在、専務取締役を務めるアサヤ株式会社は、「漁民の利益につながる、よい漁具を」の理念のもと、1850年の創業以来、三陸の漁業を支えてきた。一誠さんで七代目となる老舗の漁具屋。
Uターンとして、地元企業に経営者という立場で戻ってきた廣野さんは、採用活動などを通して「地方で働く意味」を改めて考えさせられることになったという。
「東京で働いていたときは、自分より目立つ仕事をしている人間が山のようにいました。そのなかで、自分が重要感を感じられる仕事をすることは本当にハードルが高かった。自分が埋もれてしまうような感覚になっていたんです」
東京にいると、目の前の仕事がどのような役にたつのかがわかりにくいことが多い。でもここでは、漁師さん一人ひとりに喜んでもらえるーー。
アサヤ株式会社にインターンしていた東京の学生が発した言葉だという。
「もちろん会社の経営規模やGDPなどの貢献度でいったら東京のそれにはかなわない。しかし、人の顔が見えて、自分も埋もれず、お客様にダイレクトに喜んでもらえることで、人生をかけて意味のあることをやっているんだ、ということが地方の仕事ではわかりやすいかなと思っています。地方ならではの使命感、達成感、充実感を得やすいですよね」
対組織の関係ではなく、対個人の顔が見える関係で仕事ができることの喜びは地方ならでは(写真提供:アサヤ株式会社)
さらに、廣野さんは、自身の会社のほかにも、「気仙沼さん」というECショップの運営、「ちょいのぞき気仙沼」という地域での体験型観光、さらには地域の青年会議所にも入って活躍している。
経営者でもあり、パパでもあり、地域でも活躍する。そんな廣野さんの原動力となるのは「恩返し」という気持ちだった。
「気仙沼に戻ってきたのは2014年の冬。震災があってからいちばん大変だった3年半の間、アサヤを支えてくれた社員のみんな、そして気仙沼を支えてくれた町の仲間たちには頭が上がらないんです。これまでありがとう、そしてこれからはバトンをもらった自分が、会社も地域も盛り上げていくから!という思いなんです」
心の知れた青年会議所のメンバー(写真提供:廣野一誠さん)
人とのつながりで楽しみを作れる町
気仙沼にUターンしてから3年弱。次男・善昭(よしあき)くんも誕生し、この夏には第三子も誕生した。家族ともども気仙沼の暮らしを満喫する廣野さんは「この町は人のつながりがあれば、とても楽しめる町」と魅力を話す。
休日は友人とバーベキューをしたり、家族でイベントに出かけたり。
「東京にいるときは、お金を消費することでしか楽しみは得られなかった。確かに東京のような娯楽施設はないけれど、ここには人とつながれば楽しみを生み出していける」
妻の香苗さんも、千葉県出身ということもあり移住にあたっては「不安ももちろんあった」と話すが、地域のママサークルなどでママ友ができることで不安は解消されていったという。
さらに、気仙沼の環境は子どもにとってもストレスを和らげることにつながるのかもしれないと思うことがあった。長男・真之くんは東京で暮らしていたとき、車の音や外からの明かりですぐに起きてしまう子どもだったという。
「寝つきが悪いんだなと単純に思っていたんです。しかし、夜は本当に静かで車通りも少ない気仙沼に来たら、すごい寝つきがよくなって。朝までまったく起きないようになったんです。明かりや音、振動など大人では気にしないような小さな変化が子どもにとっては大きく影響するのかなって思いました」
日用品は市内で、車で1〜2時間の一関や仙台にショッピングに行くこともあるという
具体的なイメージをもって動くことが移住の一歩
漠然と描いていた「Uターン」という思い。その思いが「決意」に変わったのが、東日本大震災であり、廣野さんにとってのUターンの第一歩は「安心できる住まい」の確保だった。
「たまたま私は、家業があって仕事が決まっている状況でした。東京で家族をもって、仕事をしている人が、移住を決意するのはなかなかむずかしい。『どういう仕事をしてるのか?』『どんな暮らしを送っているのか?』を具体的にイメージして、私がとにかく住むところを決めることで一歩進めたように、何かをまず決めてしまうことがいいのではないかと思います」と話す廣野さん。
大きな娯楽施設はない。けれど人のつながりは人一倍強い町、気仙沼。自然も豊富にあるこの町は、町まるごと遊び場であり、学び舎でもあるのかもしれない。
そんな町に一家で移住した廣野さんの暮らしぶりは、ひとつのヒントになるのかもしれない。
廣野 一誠(ひろの いっせい)さん
気仙沼市八日町出身。1983年生まれ。小学校まで気仙沼で過ごし、中学・高校は大阪、早稲田大学へ進学。卒業後、東京でITやコンサルティングの業務を行っていたが、2014年12月に気仙沼へUターンし、家業の漁具販売を営むアサヤ株式会社で専務取締役として活躍中。
ライター 浅野 拓也